原爆犠牲ヒロシマの碑建設委員会が、1983(昭和58)年8月5日に建設
爆心地に近い原爆ドームそばの元安川の川床には、原爆投下の際に爆風で吹き飛んだ建物の瓦礫が散乱したままになっていたが、1978年の夏、広島電機大学付属高校社会科学研究部の生徒達が、川底からヘドロに埋った瓦礫のなかから原爆の熱線により表面にガラス状の火膨れのできた「原爆瓦」を数多く発見した。これを契機に、「広島県高校生平和ゼミナール」を中心として原爆瓦の発掘学習が広く行われるようになる。
1981年広島市は、元安川の美化計画を発表、改修工事の実施を行うと公表した。「平和ゼミナール」の高校生達は、被爆体験の継承と言う観点から川床の遺物の科学的調査を行い、それが終るまで工事を急がないようにとの緊急アピール行った。元安川「美観論争」のはじまりであった。
世論は沸騰、結局広島市は、河川工事の際に被爆遺物の取扱に留意すると共に、被爆瓦の具体的保存策として「平和ゼミナール」から要求のあった「原爆瓦」を用いたモニュメントの建設用地も提供することになる。
その結果、設置されたのがこの碑「原爆犠牲 ヒトシマの碑」である。碑文の周りには元安川の川床から発見された「原爆瓦」が埋められている。
モニュメントの台座の碑文の「天がまっかに燃えたとき わたしのからだはとかされた ヒロシマの叫びを ともに世界の人よ」は、全国の小・中・高校生から寄せられた2,000点をこえる案の中から選定された被爆2世の蔵田順子さん(当時、安田女子高校生)のものを原案に、碑文作定委員会が作成した。
「戻れない風」をテーマに昇天する犠牲者の魂を表現したブロンズ像は、比治山女子短大の芥川永教授の作品。
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